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ナポレオン Napoléonの結婚証明書 [フランスの歴史]

Napoléon’s marriage certificate fetches €437,000 at Paris auction
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ナポレオンのジョセフィーン(Napoléon and Joséphine)との結婚証明書が、パリのオークションで、
€437,000まで、つりあがったそう。
これって、いくら?1ユーロが、137円とすると。高。。
ナポレオンのお相手の名前は、Marie Josephe Rose Tascher de La Pagerieまたは、Josephine de Beauharnais 、有名なジョセフィーンだ。
でも、このフランス語の筆記きらいじゃない。

France 24より

スコットランド scotkand テンプル騎士団が避難したところ [フランスの歴史]

スコットランドがなぜか、好きで。
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bbcにケルト十字があった。
そういえば、フランス王に逮捕されて、ボロボロにされた、テンプル騎士団が、
最後に避難したところだと、知られるところが、スコットランド。
ちょうど、スコットランドの王国が、王位継承で分裂してて、その王位候補者が、法皇に破門されてた。
多くの騎士団がここに逃れる。
そして、スコットランドは、イングランド軍と戦い、破滅させ、スコットランドは、独立国として認められる。
この戦いに432人のテンプル騎士団が、参戦。
それに感謝した、戦い後即位した国王ロバート・ザ・ブルースは、テンプル騎士の首領になったとも言われる。しかし、1328年に、ロバートが、法皇に破門を解かれると、またテンプル騎士団は、また表舞台から姿消す。
 参照 「秘密結社」桐生操氏

テンプル騎士団 最後の総長ジャック・ド・モレー  [フランスの歴史]

ジャック・ド・モレー (Jacques de Molay、1244年? - 1314年3月18日)
第23代目テンプル騎士団総長にして、最後の総長であった人物。
テンプル騎士団初代総長ユーグ・ド・パイアンと同じくらい有名である。ブルゴーニュ地方の小貴族の子であったとされるが、その人生の謎が多し。
聖地から追われた後、一つの王国以上の資産を擁していた騎士団の財政をうらやんだフランス王フィリップ4世により、異端の濡れ衣を着せられ、異端審問のうえ有罪とされた。パリ・シテ島の刑場で火刑に処された。亡くなる前にフィリップ4世ローマ教皇クレメンス5世らを呪ったとされる(1314年にフィリップ4世とクレメンス5世は急死している)。また、カペー家直系の断絶をも呪ったと言われ、これも実際1328年にフランス王位はヴァロワ家に継承されている。
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Wikipedia には、こう書かれてる。
最後の総長が、とらえられて拷問にかけられた時、70歳過ぎ。過酷な拷問です。もちろん。罪を告白すれば、死刑だけは逃れ、足かせをはめられ、独房に一生閉じ込められる。テンプル騎士団の幹部は、みんなこちら。総長もこうなるはずだった。しかし、
1314/3/18審議で、終身刑がいいわたされたとき(この時点で、7年の拷問、獄中でやつれ果ててます)
拷問に負けて、白状し、終身刑にされたはずのド・モレー が、発言を所望する。
ここで、名高い演説がされる。
略すと、拷問に負けて、不正な罪を告白したが、すべて無実。
ここで、終身刑から、死刑になり、痛めつけられて、夕方、ノートルダム寺院近くの広場で、身をじりじりとあぶられます。
その最後に、ノートルダム寺院を見せてほしいと懇願した。最後の瞬間、目を見開いて、
呪いの言葉が発せられたそう。これが、フランス人の間で語られる。
で、この呪い通り、このテンプル騎士団をはめた人たちは、みごとに、お亡くなりになる。
1か月後法皇、フランス王(テンプル騎士団のお金に目を付けた人、悪人だ)が、45歳で、自分は呪われてるって言って落馬死。この王の寵臣(テンプル騎士団の宿敵)も。 その手の本には、必ずこの話が書かれてるから、相当、皆が語り継いだ話なんだろう。
会ってない私でさえ何かとてもすごい騎士に思える。この話を思う度に、人の思いとは、どういうことが、現実化されるのだろうと考える。私のこの件の解釈は、この呪いがきいた理由は、この件で、悪人のフランス王たちが、自分たちが悪い事をしたとわかってるから、それが効いてしまったんではないかと。フランス王は、テンプルのお金欲しさに、濡れ衣を着せたのを自覚してたと。

マリーアントワネット の ヴェルサイユ宮殿での生活 (後) [フランスの歴史]

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結婚生活マリー・アントワネットとルイとの夫婦仲は、趣味・気質などの不一致や、ルイの性的不能もあって(後日、その治療を受けるまで子どもは生まれなかった)、思わしくなかったと言われる。彼女はその寂しさや慣れないフランス王室での生活を紛らわすため奢侈に没頭していたという説があり、夜ごと仮面舞踏会で踊り明かしたという。また彼女は大変に移り気かつ享楽的な性格で、読書も嫌いであったという。c0076382_1734627.jpg
母マリア・テレジアは娘の身を案じ、度々手紙を送って戒めていたが、効果は無かった。さらに賭博にも狂的に熱中したと言われる。だが賭博に関しては子が生まれた事をきっかけに訪れた心境の変化からピッタリと止めている。

また、ただの向こう見ずな浪費家でしかないように語られる反面、自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困にある者のためのカンパを募ったり、子供らにおもちゃを我慢させるなどもしていた。母親としては良い母親であったようで、元々ポンパドゥール夫人のために建てられるも、完成直後に当人が死んで無人だった離宮(小トリアノン宮殿)を与えられてからは、そこに家畜用の庭を増設し、子供を育てながら家畜を眺める生活を送っていたという。
フランス王妃として
1774年、ルイ16世の即位によりフランス王妃となった。王妃になったアントワネットは、朝の接見を簡素化させたり、全王族の食事風景を公開することや、王妃に直接物を渡してはならないなどのベルサイユの習慣や儀式を廃止・緩和させた。しかし、誰が王妃に下着を渡すかでもめたり、廷臣の地位によって便器の形が違ったりすることが一種のステイタスであった宮廷内の人々にとっては、アントワネットが彼らが無駄だと知りながらも今まで大切にしてきた特権を奪う形になってしまい、逆に反感を買ってしまった。

また、プチ・トリアノン宮で田舎娘の格好をするのを好み、ここにはポリニャック伯爵夫人などの、極端に寵愛したお気に入りの少数の貴族達のみしか出入りできなかった。

こうした中で、マリー・アントワネットとスウェーデン貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルセンとの浮き名が、宮廷では専らの噂となった。地味な人物である夫のルイ16世を見下している所もあったという。ただしこれは彼女だけではなく大勢の貴族達の間にもそのような傾向は見られたらしい。一方、彼女は大貴族達を無視し、彼女の寵に加われなかった貴族達は、彼女とその寵臣をこぞって非難した。

彼らは宮廷を去ったアデライード王女や宮廷を追われたデュ・バリー夫人の居城にしばしば集まっていた。ヴェルサイユ以外の場所、特にパリではアントワネットへの中傷がひどかったという。多くは流言飛語の類だったが、結果的にこれらの中傷がパリの民衆の憎悪をかき立てることとなった。
1785年には、マリー・アントワネットの名を騙った詐欺師集団による、ブルボン王朝末期を象徴するスキャンダルである首飾り事件が発生する。このように彼女に関する騒動は絶えなかった。
これらはルイ16世が側室や愛人を生涯において一人たりとも持たなかったため、格好の標的にされてしまった事も大きい。

幽閉中の王妃
1789年7月14日、フランスでは王政に対する民衆の不満が爆発し、フランス革命が勃発した。ポリニャック公爵夫人(伯爵夫人から昇格)ら、それまでマリー・アントワネットから多大な恩恵を受けていた貴族たちは、彼女を見捨てて亡命してしまう。彼女に最後まで誠実だったのは、王妹エリザベートとランバル公妃マリー・ルイーズだけであった。国王一家はヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿に身柄を移されたが、そこでマリー・アントワネットはフェルセンの力を借り、フランスを脱走してオーストリアにいる兄レオポルト2世に助けを求めようと計画する。

1791年6月20日、計画は実行に移され、国王一家は庶民に化けてパリを脱出する。アントワネットも家庭教師に化けた。フェルセンは疑惑をそらすために国王とマリー・アントワネットは別々に行動することを勧めたが、マリー・アントワネットは家族全員が乗れる広くて豪奢な(そして足の遅い)ベルリン馬車に乗ることを主張して譲らず、結局ベルリン馬車が用意された。また馬車に、銀食器、衣装箪笥、食料品など日用品や咽喉がすぐ乾く国王のために酒蔵一つ分のワインが積めこまれた。このため元々足の遅い馬車の進行速度を更に遅らせてしまい、逃亡計画を大いに狂わせてしまうこととなった国境近くのヴァレンヌで身元が発覚し、6月25日にパリへ連れ戻される。このヴァレンヌ事件により、国王一家は親国王派の国民からも見離されてしまう。

1792年、フランス革命戦争が勃発すると、マリー・アントワネットが敵軍にフランス軍の作戦を漏らしているとの噂が立った。8月10日、パリ市民と義勇兵はテュイルリー宮殿を襲撃し、マリー・アントワネット、ルイ16世、マリー・テレーズ、ルイ・シャルル、エリザベート王女の国王一家はタンプル塔に幽閉される(8月10日事件)。
タンプル塔では、幽閉生活とはいえ家族でチェスを楽しんだり、楽器を演奏したり、子供の勉強を見るなど、束の間の家族団らんの時があった。10皿以上の夕食、30人のお針子を雇うなど待遇は決して悪くなかった。

アントワネット ギロチン台へ
1793年1月、革命裁判は夫ルイ16世に死刑判決を下し、ギロチンでの斬首刑とした。
息子である王位継承者のルイ・シャルルはジャコバン派の靴屋シモンにひきとられ、ぞんざいな扱いを受けたという。マリー・アントワネットは8月2日にコンシェルジュリー牢獄に移され、その後裁判が行われたが、結果は初めから決まっていた。急進化する革命裁判所は多数の反革命を処刑するための、最初の生贄としてアントワネットを欲していた。しかし、アントワネットは提示された罪状についてほぼ無罪を主張し、裁判は予想以上に難航。業を煮やした裁判所は息子のルイ17世の非公開尋問をおこない、「母親に性的行為を強要された」とアントワネットが息子に対して無理矢理に近親相姦を犯した旨を証言させた。しかし、この汚い企みに対しアントワネットは裁判の傍聴席にいた全ての女性に自身の無実を主張し、大きな共感を呼んだ。
しかし、この出来事も判決を覆すまでには至らず10月15日、彼女は革命裁判で死刑判決を受け、翌10月16日、コンコルド広場において夫の後を追ってギロチン送りに処せられることとなった。


マリーアントワネット の ヴェルサイユ宮殿での生活  (前) [フランスの歴史]

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マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ( Marie Antoinette Josepha Jeanne de Lorraine d'Autriche, 1755年11月2日 - 1793年10月16日)
ドイツ語名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハーナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン
フランス国王ルイ16世の王妃。フランス革命中の1793年に刑死した。

マリー・アントワネットは、ご存じ天国と地獄をみたような人生の女性。フランス人にこの人のことどう思うかと、聞いた事ありますけど、子供みたいだったんじゃないかと。あまり関心なさそうだった。声楽は作曲するほどの芸術家。それにしても、絵になる時代。ただ、ベルサイユ宮殿は、贅沢の象徴というか、随分税金使ったと言われますね。衣装も豪華すぎ。
フランス革命で勃発して、他の貴族が逃げる中、自分たちもいよいよ危ないから逃げたのに、その馬車といい、まだ追手があるのにランチに休憩してのんびりして、先を急がなかったところが、なんというか、オーストリアに逃げれたかもしれないのに。。。これも、王と王妃の運命か。王家のか。サン・ジェルマンは、警告したともいわれるし。逃げるチャンスが何回もあったのかもしれないとすると、やはりこれは、大きな運命に引きずられてるのかしら。ある王朝の終焉。王権の終わり。テンプル騎士団を破壊した端麗王とか言われるご先祖にかかったのろいかしら。

1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファンとオーストリア女大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生。イタリア語やダンス、作曲家グルックのもとで身に付けたハープやクラヴサンなどの演奏を得意とした。3歳年上のマリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹は非常に仲が良かった。オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼い頃から家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧した。また幼い頃からバレエやオペラを皇女らが演じている。
当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており(外交革命)、その一環として母マリア・テレジアは、アントーニアとフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)との政略結婚を画策。

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少女時代のアントーニア
1769年6月、ルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。このときアントーニアはまだフランス語が修得できていなかったので、オルレアン司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始することとなった。1770年5月16日、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式がヴェルサイユ宮殿にて挙行され、アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、盛大に祝福された。

デュ・バリー夫人との対立
結婚すると間もなく、ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人と対立する。結婚すると間もなく、ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人と対立する。もともとデュ・バリー夫人と対立していた、ルイ15世の娘アデライードが率いるヴィクトワール、ソフィーらに焚きつけられたのだが、娼婦や愛妾が嫌いな母・マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を憎み、徹底的に宮廷内で無視し続けた。当時のしきたりにより、デュ・バリー夫人からアントワネットに声をかけることは禁止されていた。宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に別れ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであったと伝えられている

ルイ15世はこの対立に激怒し、母マリア・テレジアからも対立をやめるよう忠告を受けたアントワネットは、1771年7月に貴婦人たちの集まりでデュ・バリー夫人に声をかけることになった。しかし、声をかける寸前にアデライード王女が突如アントワネットの前に走り出て「さあ時間でございます! ヴィクトワールの部屋に行って、国王陛下を御待ちしましょう!」と言い放ち、皆が唖然とする中で、アントワネットを引っ張って退場したと言われている。
2人の対決は1772年1月1日に、新年の挨拶に訪れたデュ・バリー夫人に対し、あらかじめ用意された筋書きどおりに「本日のベルサイユは大層な人出ですこと」とアントワネットが声をかけることで表向きは終結した。その後、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになった。

2014年通訳ガイド試験に出題された フランス人・クーベルタン男爵ってどんな人? [フランスの歴史]

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後に「近代オリンピックの父」と呼ばれるピエール・ド・クーベルタン男爵。
近オリンピックの提唱者。
1863年1月1日、貴族の家系の三男、パリ生まれ。当時の貴族の子息の多くがそうであったように士官学校に学び、ゆくゆくは軍人か官僚、あるいは政治家になることを期待されていたが、その道は彼を満足させるものではなく、次第に教育学に興味を示すようになる

 というのも、彼が青春時代を送っていた当時のフランスでは、普仏戦争(1870~71)の敗戦を引きずり沈滞ムードが蔓延していた。この状況を打開するには教育を改革するしかない、と考える。
.そこでクーベルタンは、まずはパブリックスクール視察のために渡英。このとき熱心な愛国主義者であった彼は、大のイギリス嫌いだったそう。
 しかし彼は、イギリスの学生たちが積極的に、かつ紳士的にスポーツに取り組む姿を見て感銘を受け、たちまちイギリス贔屓になってしまう。そして、「服従を旨として知識を詰め込むことに偏っていたフランスの教育では、このような青少年は育たない。即刻、スポーツを取り入れた教育改革を推進する必要がある」と確信。
 その後も彼は、精力的に各国へ足を伸ばし、見聞と人脈を広げていく。とりわけアメリカでの体験は刺激的だった。彼には、ヨーロッパほど階級や伝統・慣習に縛られていないアメリカ社会は、古代ギリシャの都市国家の自由さに似ている、と感じられた。
また、当初は「自国の教育改革のために」スポーツを取り入れる必要性を感じていたクーベルタンだったが、次第に「国際的競技会」の構想をふくらませていく。世界各地を視察。
.
「古代オリンピック」への関心の高まり
 折しも1852年にドイツの考古学者によってギリシャのオリンピアで遺跡が発掘され、以来、そこで行われていたという古代の競技会への関心が高まっていた。
同じ頃、あくまで地域的で小規模なものではあったが、ヨーロッパ各地で「オリンピック」と銘打った競技会が行われていた。
 それに刺激されたクーベルタンは、スポーツ教育の理想の形として「古代オリンピックの近代における復活」を思い描くようになっていく。
 ただし彼が思い描いたのは、一国の国民だけが参加する競技会ではなく、もっと普遍的で、明確な理想を背景とした運動。

近代オリンピック誕生
 1894年6月、パリの万国博覧会に際して開かれたスポーツ競技者連合の会議で、 クーベルタンは、オリンピック復興計画を議題に挙げた。すると満場一致で可決
第1回大会は、1896年、古代オリンピックの故郷オリンピアのあるギリシャで開催することも採択された。 
また、同じ会議で、古代の伝統に従って大会は4年ごとに開催すること、大会は世界各国の大都市での持ち回り開催とすること、
大会開催に関する最高の権威を持つ国際オリンピック委員会(IOC)を設立すること、など、近代オリンピックの基礎となる事柄が決定されている。今では定員115名で構成されているIOC委員、そこで決定したIOCの委員は、わずか16名だった。

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マルグリット・ド・ヴァロワ 王妃マルゴ サン・バルテルミ [フランスの歴史]

イザベル・アジャーニの映画、王妃マルゴで、サン・バルテルミの虐殺のシーンで、唖然としたの思い出して。
カソリックとプロテスタントと、同じキリスト教の争いって、宗教戦争って、、、って考えた。

マルグリット・ド・ヴァロワ   Marguerite de Valois, (1553年 - 1615年)180px-Margot.jpg

フランス王アンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディシスの娘。フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世の3人のフランス王の妹であり、ナバラ王アンリ、後のフランス王アンリ4世の最初の王妃である。
マルゴ王妃(La Reine Margot)と呼ばれ、アレクサンドル・デュマ・ペールの歴史小説『王妃マルゴ』のヒロインになった。


マルグリットは1553年5月14日、パリ郊外のサン=ジェルマン=アン=レーの城で、
アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの三女として生まれた。
ニックネームのマルゴは、後にそれぞれフランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世となった3人の兄たちによって名づけられた。
幼い頃から際立つ美貌と、ギリシャ語、ラテン語などの語学や哲学などにも造詣が深い彼女は、宮廷の華として誰もが憧れる絶世の美女として成長していった。

政略結婚とサン・バルテルミの虐殺
そんな何不自由のなく成長したマルグリットには、大勢の男性が求婚をした。彼女が結婚したいと願ったのは、ギーズ公アンリであった。しかし、彼女の望みは母カトリーヌ・ド・メディシスによって打ち砕かれる。母は、激化するカトリックとユグノーの宗教対立を解消するため、ユグノーの指導者であるナバラ女王ジャンヌ・ダルブレに、ジャンヌの息子アンリ・ド・ブルボンとマルグリットの縁談を持ちかけた。

当初、カトリック教徒と息子との結婚に反対していたジャンヌ・ダルブレも、カトリーヌの宗教対立解消という考えに同調し、縁談はまとまった。しかしジャンヌは婚礼の直前、1572年6月9日に急死する。一説にはカトリーヌ・ド・メディシスによる毒殺ともささやかれる不審な死であったが、婚礼は予定通り同年8月17日にパリで行われた。その時マルグリットは19歳、新郎アンリは18歳であった。

しかし婚礼の6日後の8月24日、サン・バルテルミの虐殺が発生する。マルグリットとナバラ王となったアンリ(母の死後に王位を継承)の婚礼のためにパリに集まっていた大勢のユグノー教徒たちは次々に惨殺され、アンリ自身も幽閉されることとなった。1576年、幽閉の身であったナバラ王アンリがパリの宮廷から脱走すると、マルグリットは兄のアンリ3世の許に残された。

その後、マルグリットはナバラ王アンリの許に送り届けられたが、それぞれが公然と幾多の愛人を抱え、夫婦仲は冷え切っていた。マルグリットは病に伏した後、1582年に再びパリの宮廷に戻ったが、兄アンリ3世と仲違いをして宮廷を去った。

離婚と晩年
1589年にアンリ3世が暗殺された後、ナバラ王アンリはアンリ4世としてフランス王位に就いた。マルグリットとの間に子供はなく、仲も疎遠になっていて、1599年に2人は正式に離婚した。その後アンリ4世は、マルグリットの母方の遠縁であるメディチ家のマリー・ド・メディシスと再婚した。

マルグリットは離婚後も、アンリ4世やその一家との関係は、友人として良好だったという。特にアンリ4世とマリー妃との子であるルイ13世を可愛がり、館と領地を遺贈した。1615年5月27日のマルグリットの死で、ヴァロワ家の血統は庶流を除いて完全に絶えた。


、母カトリーヌ・ド・メディシスが、ノストラダムスに会って、将来血統は、途絶えるって予言されてたシーンあった。
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